手記 - 子どもから教えられたこと
子どもから教えられたこと 上
@ 自分は野花でありたい17・18歳のころ、自分に誓った事がある。
いつの日か自分が親になれたなら、「子どもがビクビクしないですむ家庭を築こう! 嘘をつくことを怒るのではなくて、
子どもが嘘をつかなくてもいい家庭をつくろう!」と。
俗にいう「素直ないい子」にだけは育てまいと強く思った。
勉強しているふりをしてマンガを読んでいたりとか、
日頃それをすると怒られることをしていたとき
(ベッドの上で菓子を食べるとか、TVを観ながら食事をするとか、鼻くそをほじくるとか、etc…)
予想外の母親の帰宅だったり、部屋に入ってこられたりして、ビクッとして それらを隠したものだ
心の中で言っていた 『ウザイんじゃ!! クソばばぁ!!!』 だったりね。
だが、親に隠したこと(行動や想い)、
本当はそれこそが「本当の自分」(=「ありのままの自分」)だった。
数年後(数十年か)、あの日の想いは色褪せることなく、私は親になれた。
幼い頃から親に対して意見を言ったり、自己主張をしたりする孫をみて、私達夫婦双方の親は
『甘やかしたらいけない』とか、『ちっとは親の威厳を持て』とか、『しつけは大事だ』とかとか
よくアドバイス(?) をくれたものだが、子どもたちには 「本当の自分」でいてもらいたかったから
そんなものは右から左に流してきた。 子育ても含め、自分が生きていくためのルールは、
従うものではなく、創るものだ!! と信じて。
そんな私達だったから、我が子をどう育てるのか、どう育てたいのか、というような回路の発想…
親の期待とか、理想とか、こうあるべき!みたいなものを、子どもが歩む道の前方に先に置いとくような
観念的な発想はなかった。 「どう育っていきはるんやろなぁ」だった。
それは今も変わらない。 どんな物語りになるのか、本当に楽しみである。
が、「本当の自分で」の想いはズッシリとあったのだが、“愛” と “自由” を履き違えてきていた私は、
子どもたちを100%、あるがままの自分にはさせていなかったことに気づかせてもらえた。
ならば、「あるがままの自分」とはいかなる状態をいうのか… 原点に戻り、頭からっぽにして
ゼロからのやり直しをした。
本当は誰の価値観? どこから来た価値観? という問いへの答え。 不登校をわかる(=それは、
“子どもをわかる” ということに他ならなかった)きっかけともなった 当時の私の価値観は、
親(や教師をはじめとする大人)からの干渉と、評価によって、洗脳させられた造りものだった。
まずは私自身が、100%「本当の自分」ではなかった。 ちょっとやそっとでは落ちない、
40年分の汚れがこびり付いていた。
1個ずつ、1個ずつ、日々の暮らしの中で茶飯事に起こる小さな出来事、その瞬間に集中して、
以前とは違う 観方 ・ 捉え方 が出来るようになれたことで、少しずつ自身がわかるようになった。
その上で、次なるステップ、子ども自身が「本当の自分」のまま主人公となって、
自由に、自分の好きなように、自分が満足する、自分の人生を創っていくために、
親は子どもに何を援助し、何を排除すればいいのか?
この問いかけこそが、この3年の月日の中で、子どもたちから教わった最大の学びとなった。
「あるがままの自分」でいさせてあげれない行為(= 子どもを不自由にする行為) ― それは
自律性を遠ざける干渉と評価だった。
自分で自分を律することが出来ない限り、自分を生きる力、生きていく力は生まれない。
真の “自由” も、“責任” もわからない。 “自信” も持てない。
どれもこれもはじめから、自分の中にあるものなのに・・・。 干渉は、それらを砕く。
子どもが自分の思考や感じたことを基準に行動しているとき、(「何もしない」 ということをして
いるときも、親の意に反したことをしているときも、怒っているときも)そのとき その状態が、
そのまんま、その子自身なのに、親は我が子のありのままを受け止めず、常にものさしをあてて
見ちゃうから、自分(親)にとって快とすることなら誉め(受容)、不快なら その行動は悪いこととして叱ったり説教したり・・・ あくまでも評価の基準は、親の感情や都合や価値観によって
判断される。 (子どもが泣いているとき、その涙に共感することもなく、『いつまでも泣くな! 男でしょ!!』とかって言う… 『やめなさい!!』とかって言う…)
自分は野花でありたいのに、付加価値のない花ではダメだとして、親はバラになるよう加工する。
とにかく自分の枠に はめないと気がすまない。 許せない。 放っておいたら、親が善しとして望む、
ちゃんとした(?)バラには ならないから、不満が出、イライラし、不安で焦ってしまう。
そして親は、その不安を自分の中に留めておけばいいものを、干渉と評価と脅しまでかけて、
自分の不安を少しでも軽くしたくて、(その不安を)子どもに押し付け 担がせてしまう。
(『そんなことでどうするの!!』 とかって言って…)
担がされた子どもは、野花ではダメだ! と抑圧を受けて育つわけだから、「ありのままの自分」を
否定(否認)していく…。 結果、劣等感や罪悪感に苦しみ、恐怖は根づき、自信はなくなり、
評価が怖くて、「本当の自分」を基準としての考えや行動は できなくなっていく…。
朝は親が起こしてくれる。 『ハンカチは? 名札は? 帽子は? 忘れ物ない? 今日は寒いから
ジャンバーを着て行きなさい。 もう!そんなだらしなく着ないの!! ちゃんとボタンをしてから
玄関は出るものよ! あ゛~もう 靴ひもも いがんでるでしょ!! ほんっと もう みっともない!!
お母さんが言わなかったら 何も出来ないんだから!!!』
あれダメ・これダメ、 あーせぇ・こーせぇ… 数えきれない数の干渉を日ごと受けて
(ワンセットになっている評価も受けて)育てられてくる。掛ける365日。の、掛けるウン十年…
自分の中に価値を見出せないまま(見出してもらえず)大人になる。 親になる。
親自身が自律的ではないから、他者からの評価に依存 (執着)しちゃう… 無理もない。
感情あらわに声を荒げて怒鳴るのも、冷たく表情だけで怒るのも、どんな怒り方にしろ
「怒る」という行為や、子どもが 『どうして?なんで?』って聞く質問や疑問や不安に、
子どもだからといって「ごまかす」行為は、子どもに恐怖を抱かせる。
恐怖が根づいた子どもは、劣等感や罪悪感に縛られて、「あるがままの自分」では居れなくなって
いくことは、自身の体験でわかっていた。
子どもにとって、親に怒られたり、拒否られたりというのは、想像絶する恐怖の世界であり、
本当の自分のまんまでは、嫌われるのではないか、見捨てられるのではないか、と恐怖に怯え、
愛されたいため、認めてもらいたいため、自分の魂に嘘をついてまででも、親の望む いい子
(もしくは、わるい子)になって、親の関心を引こうとする。
親の愛をゲットしようとするそのエネルギー、パワーは半端じゃない。 だってそうしないと
自分を守れないのだから。
しかし、干渉を受けるのは、あまりにも日常化されていたので私は気づけなかった。
怒るのと同等に、いやむしろ、自律性を遠ざける(=自立)「干渉」の方が有害であったことに。
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