手記 - 子どもから教えられたこと
遊び
@ 遊びは重要な学びかれこれ3時間。 ONE PIECEのコミック本を開いて、
なにやら書いている。
母 『何してるのぉ~?』
娘 『1ページめから(コミック本に)載ってる漢字
書いて 遊んでんねん』
見れば、練習用の紙と、清書用の紙があって、
練習用の紙には漢字が埋め尽くされてて、まっくろになったものが何枚もあった。
ONE PIECEの一巻をお持ちの方は、今一度見ていただければわかるが、そこには、
「富 ・ 名声 ・ 力 ・ 世の全て ・ 手に入れた男 ・ 海賊王 ・ 彼 ・ 死に際 ・ 放つ ・ 一言 ・
全世界 ・ 人々 ・ 海 ・ 駆り立つ ・財宝 ・ 欲しい ・ 探す ・ 置く ・ 大海賊 ・ 時代 ・ 迎える」
1ページめだけで これだけの漢字がかかれてある。
ペンだこの出来た指に ばんそこを巻きつけ、次の日も 次の日も、この「遊び」は続いた。
(今も・・・。 最近は、歌の歌詞で この遊びをやってはることが多いなぁ)
ある夜、取れたボタンをつけようと針仕事をしていた私をみて、『やってみたーい!!』 と娘。
『じゃあ、ぞうきん作ってくれる?』 これまで針を手にしたことのなかった彼女、このとき6歳。
針の穴に糸を通すのも、結び目をつくるのも 全てが初体験。 約2時間後、
赤やら緑のカラフルな色の糸で縫われたぞうきんが完成。 しかし、娘は満足しなかった。
犬のマスコット(鞄とかにぶら下げる大きさのフェルトで出来ているもの)を作りたい!となり、
翌日、図書館で「フェルトつくり」の本を借り、手芸屋さんでフェルトを買ってきて、
いざ、犬のマスコット作りのはじまり!
型紙の取り方から、チャコールペンの使い方・・・ ペンできちんと形取る作業、 型紙をハサミで
きれいに切り取る作業が難しく、本人、なかなか納得いかず、描いては捨て、切っては破り・・・
先は長い。 もうイヤになってやめはるのかなぁ?って感じの空気・・・ が、 8時間後
クマにもウサギにも見える(?) 愛らしいワンちゃんのマスコットは出来上がった。
その日、自分専用の裁縫箱をプレゼントされた娘は、「遊び」がまたひとつふえた。
以降の数々の作品、ここでお見せできないのが残念 (親バカ
『私も自分のHPつくるぅ~!! 教えて~!!!』 の一言で始まった HP作り。
そのとき時計は午前11時。
それから14時間後、昼ご飯も晩ご飯もそっちのけで、HPのベース部分は おおかた出来上がった。
6歳のある一日の出来事。 ちなみに教えていたのは、4歳違いの兄 息子。
大抵の親や教師、大人は、「遊び」と「勉強」を区別する。そしてその上、格付けまでしちゃう。
かくいう私はそうだった。 学習指導要領に基準を置き、それによって計られた成績で、
うちの子は勉強ができるとか、○○高校に行っている子は頭がいいとか…
こんなだったから、本当に頭のいい子というのは どういう子のことなのかがわかるまでは、
歴史の本を読みふけっている子は、ゲームやカードに熱中して遊んでいる子より、すぐれたことを
している、と捉えていた。 どちらも、どんなことでも、等しい価値をもっているのに。
ホント、とらわれていると 現実でいっぱいだね。
とらわれないでいると 世の中 不思議でいっぱいなのにね。
選別。 格付け。 先入観? 洗脳? 焦り? 不安? ???
本ひとつ例にとってみても、いかにもって感じの本なら許せても、マンガ本となると、
『そんな暇あったら勉強なさい!』 となっちゃう。 ゲームにいたっては、頭痛の種であろう。
『何も言わなきゃ何時間でもしているのよ!』 よく聞く親の嘆きであるが、
おいおい、ちょっと待って。 すごいじゃん!! その集中力!!!
遊びによって育つもの。 それは、集中する能力。 創造する能力。
遊びは重要な学び。
皆さんも一緒かな?
自分が子どもだった頃、遊びほど楽しいものはなかった。 「遊び」は、させられた! のではなく、
湧き出る衝動に突き動かされるままに、「した!!」ものだったから。
そして、好奇心に身を任して集中した遊びには、意識的であれ無意識的であれ、
自分自身が自分自身にハードルを置き、どんどん高くしていってた。
例えば、絵にしたって、けんだまにしたって、鉄棒やうんてい、こまなしで自転車に乗れるように
なりたくなったときだって、出来るようになりたい!っていう一心で、ただひたすら挑戦し続けた。
そして初級者コース(?)が出来るようになったら、今度はもっと上手くなりたい!っていう想いが
自然と湧き出てきて、どんどん自分で難しいことを増やして、さらなる高度なものを目指していった
周りの誰がその出来を誉めたって、自らがその上達に満足するまでは中途半端には終わらない
ひたむきさがあった。 常に自らが自らに評価を下しながら。
ビー玉やベッタン、探偵ごっこに お人形ごっこ。 何にしたってどれにしたって、どれもこれも、
「やってやる!」から、更に如何に「どうやって?」を考え工夫した。 想像力を超えた創造力で。
自分の興味に基づいた自分にとって好きな遊びの活動は、誰かが、何かが、邪魔をしなければ、
集中力は途切れず、創造する力を開花させる真剣な学び。
体力、行動力、実践力、思考力、決断力、技能、個性、自主性、協調性、忍耐力、自省心、愛他心、
ぅ~ん他になんだ? 自己教育である遊びを、すればするだけ成長するものは。
子どもに必要なのは、現在の学力よりも、むしろ将来の実力ではないのかな? なのに、
その実力の糧となる、学業以外の経験によって得られる豊かな知恵を生む貴重な財産 ≪=遊び≫
を、ないがしろにしていないかなぁ。
テレビゲームにいたっては 賛否両論もっとも激しい「遊び」かと思うが、
なんでゲーム(だけ)が、善い・悪いで判断されるのか、私にはその発想が不思議。
まして、親が反対派だからといって 子どもに禁止(あるいは何らかの条件付きでしぶしぶ許す
とか)させるのは、それ以上に不思議。
だってさ、学ぶこと、学んでいることを、妨害したり奪い去ったりする権利は 誰にもないでしょ。
その子はゲームが好き! ゲームがしたい! だからする!! それがいいのにな。
それが大切なのにな。(してもいいよ。 ではなくて、自分がしたいことをすることがいいんだよ)
「遊んでばかりで、ちっとも勉強しないのよ。 集中力のでる薬ってないものかしら…」とか、
「うちの子はやる気がなくて… どう言ったらやる気がでるのかしら?」などと言うが、親は、
子どもの “集中する能力” を、親自身が奪い去り、踏みつぶしていることに気づいていないよなぁ。
また、 “やる気” なんてものは錯覚にすぎず、自分にとって自然な方向に進んでいるときは
必要としない。 だってほら、やりたい!!って思ったことは、意識してやる気を起こさずとも
既にもうやっているでしょ。 したい!ことは、頭で考えるものじゃなく、ハートで感知するもの
だもの
子どもを自由に遊ばせておいたら、すべきことをしないで、楽な方・楽な方へと流れていき、
自分から困難を求めず、忍耐力も育たない… ってな忠告をひょこひょこ受けることあるけど
(直接私に言うか言わないかの違いだけで、大多数の大人はこう思っているんだろうけどね)
私はそのたび またまた不思議に思うの。
「この人は、一切の強制や干渉、指示もなく、自分のやりたいことをしてきた(している)
子どもたちと逢ったことあるのかな?」って。
「自分はそんなふうには育ってはきていないから 知らないだけじゃないのかな?」って。
「自由を抑圧させれば忍耐力は育つ? ならばどうしてこうも、“待つ” ができない怒りんぼの
親や大人が いっぱいいるの?」ってね。
私は、子どもたちをみてきて確信しました。
「遊び」だけじゃない。 教育も時間も生活も運命すらも、自分の魂 (本能)に従って生きている
子どもは、すべきことをして、楽な方・楽な方へとは流れず、むしろ自ら困難な方を選び、
また、その忍耐力のすごさには驚くばかりです。 ただ、親が、そして子どもが、 “真の自由” を
知っている場合においてだけど。
私が子どもだったときの思い出話をひとつ。
その日、美容院に行った私は、美容師さんがカミソリを使ってカットする光景に釘付け。
家に帰った私は、さっそく、持っていたお人形で真似事を始めた。
やり初めてみてわかったことに、人形の髪の毛が部屋の床にバサバサ落ちる。
と、人形を、目線の位置に固定しないとやり難い。
この2点の難儀を、知恵を絞り開発して、再度再開。
持っていた人形(髪の毛のあるもの)は、アッという間にやり終えた。 が、まだやりたい。
どれもこれも短くなっていた人形の髪の毛を、また切り始めた。
気がつくと、全部、丸坊主。 が、まだまだやりたい。 さぁどうする?
考え閃いた私は、家にあったミシン糸を30cm程に切り揃え、何個かの束を作り(長時間を
要した)机の前面下に固定して、またやり始めた。
この頃にはもう、右手にカミソリと櫛を、同時に持てるようにまでなっていた。
霧吹きでひと濡らし♪ 櫛を入れ、左手の人差し指と中指で髪の毛(糸)をはさみ、
その上をカミソリでシャシャシャッ♪♪
母が部屋にやってきた。 私は、『見て!見てぇ~!! あのねぇ~』 とハッピー顔で言いかけたが
先に母のカミナリが落ちた。 すべては終わった。
その日以降、2度とお人形は買ってはもらえなくなった。 カミソリも私の前から消えた。
残ったのは、『なに考えてんの!! 頭おかしぃんじゃない!!!』 の言葉で始まった
長い々お説教と、罰と、あと 何でしょう…
未来のカリスマ美容師、ここに散る! ってか。 残念!! (笑
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