手記 - 子どもから教えられたこと
勉強
@ 市場調査はバッチリ娘(下の子ども)は、既存の学校と、他の学校(フリースクール等)
2校と、自宅、という4つのパターンのなかで、既存の学校には、その日の受けたい授業(3・4時間目だけ行くとか)や、行事などによって行ったり ・行かなかったりをしていたが、強制と服従で先生が善しとする子どもに造ろうとする学校に不思議さを感じ、盆栽の美しさには興味なし!と言って、2年生になったとき、自らの意思で、ひとりで、
公の学校にきっぱりとバイバイを言いに行った。
その頃の私はもう、息子のおかげで学校に行かないということがどういうことかわかれていたし
子どもたちの学びを抑圧して、自身にではなく他者(=社会)に対して従順であれとする教育には
興味はなかったので、娘の選択に戸惑いはなかった。
むしろホッとした。 朝、ゆっくり寝れるし (違 (ホンマ (笑
しかし、娘に対して私の中で、息子の時には体感しなかった ある一つの葛藤がうまれた。
それは、算数の基礎 ― たし算・ひき算・かけ算・わり算 ― だけはマスターしてほしいと思った
ことだった。 いや、“して欲しい” のレベルではなく、“するべき” に近かった。
分数や関数、数学に至っては(他の教科も)、それらの知識を必要とする職業にでも就かない限り
日常必要としないし、世間一般にいわれている学力や学歴には何らこだわりもなかったが、
計算だけは必至でしょ!? わからなきゃ明らかに困るでしょ!?
(読み・書き・計算。 このうち、読み・書きは出来ていたから、それには心配はなかった。)
そう捉えていたから、親特有の所有愛「(覚えるのは) あなたのため!」発想が生まれた。
だが一方で、覚える気のない娘に無理に教える無意味さや、それどころか、その強制は、彼女の
自律性や自発性をも壊し、それらが彼女を自己肯定できぬ人間にしてしまうことはわかっていた。
とはいいつつ、この頃はまだ、頭でしかわかっていなかったようで… だから苦しんだ。
物事を理で解こうとする癖がついてしまっているから、頭と身体が分離する…
自分自身にではなく、(自分の)心にしがみついてしまう…
私が私の心に住みついた恐怖と闘っている期間、娘はずぅ~と、吐き気の伴う腹痛と闘わなくては
いけなくなった。 娘に しょっちゅう襲う腹痛アレルギーは、まさに私が原因であり、私のせい。
言ってることと、やってること(想っていること)が違うのだから。 子どもは、親の感情や反応を
敏感に読み取る能力を生まれた時から備えているから、子どもは親の心の内がくっきりと見える。
基礎学力なぁ・・・ どうしよう。 悶々続行、3ヵ月ほど経ったある日のこと。
娘が1袋しか残っていなかった12個入りの冷凍たこ焼きを食べようと、調理(レンジでチン)
しかけようとしたとき、運悪く(運良く)台所に息子である兄が来て、兄と半分個することになった
わり算を知らない娘は、即座に “1人6個” はわからない。
いつものようにお皿を2枚おいて1個ずつ順々に並べていき、そこで “1人6個” がわかる。
これはいつもの光景だったが、その日、娘は言った。
娘 『あーーーわかったわーーー!!』
母 『何が~?』
娘 『12÷2=6になるんやぁ! で、12分の2でも6になって、12-6も6やぁ。
たこ焼きを半分個するのってこういうことなんやぁ!!
○○(兄の名前) (台所に) けーへんかったら 12個食べれてたのにぃー!』
兄 『でも兄弟が3人やったら もっと悲惨やなぁー』
娘 『ほんまや。 1人4個になってまうわ』
足すってこと、引くこと、掛けるということ、割ること、分数までも、娘は覚えたのではなく、
その瞬間、 “わかった”
同時に、私も “わかった” その日以降、娘は慢性腹痛から きれいサッパリ解放された。
子どもは(大人もだけど)、遊んでいようが何をしていようが、自分にとって必要なことは
学んでいるんですね。 必要なことを学んでいるんですね。 しかも自分なりの方法で。
勉強は、する!ものであって、させるものではなかった。
不登校同様、これも わかってしまうと、自分の見解の狭さに呆れちゃいました。
自分が子どもだった頃に、親や教師に抱いた感情 ― なんでこんなん覚えやなあかんのん!
興味ないのに! ― を忘れてしまってて、教えたら学ぶ! だから教えなきゃ!(教えたからと
いって必ずしもそれを学ぶわけではないのに)としていた己の傲慢さに羞恥した。
娘よ、長い間 腹痛を与えてしまい ごめんなさい。
「勉強」というと机に着席し、おおむね学校で習う教科を学習する、と捉えていたが、
勉強(教育)とは、“生” すべてに繋がっている「学び」なのですね。 そして、その学びを
衝き動かすものは、誰もが生まれもっている好奇心。 知ってみたい!! やってみたい!! と、
内から湧き出るもの。
だから、学ぶもの、学びたいもの、学びたいとき、学びたい方法は、個々ちがうのが自然であり、
水を差さないよう、絶えずその好奇心を、生き生きさせておくことが大事なんだということを、
まの当たりにしました。 自らの好奇心から学びは始まる。 決して強制的に外側から、
今はこれを学びなさい!!といったかたちで、させられるもの (させるもの)ではない。
学力低下うんぬんが叫ばれているが、大人の側の 「与えよう」「身につけさせよう」とするものと
子どもが 今「取りたい」もの、 「求めている」ものとにはズレがあるだけで、
個性や個人差を無視した、小2の1学期にはこれを、小3の2学期にはこれ、中2の3学期では
これ、と要求されている「学習指導要領」に、片足くるぶしばかり(?)まだ縛られていた。
学校との根深い葛藤でした。 宿題とかテストとか成績なんてものは、
みんな大人の欲望を満足させるだけのもの、ってのは わかっていたのに。
世間に負けたぁ(← こんな歌あったなぁ)母でした。 いやいや、自分に頼れない母でした。
教育とは何か? がわかったら、今まで見えていなかったものが見えるようになった。
なんてことはない。 娘は既に算術を、日常の生活体験の中で学んでいた。
教科書で覚えたのではないだけで。
我が家では、親も子も皆、1ヶ月の小遣いは 5000円。 6歳の子どもにとっては大金(?!)で、
自己管理するにはキツイかな?とも思ったが、年の差を理由に、小さいからといって額を少なくする
のは???なので、(息子にも娘にも)1年になったときから そうしていた。
当初は、3日もすれば小遣いは無くなったり、コンビニでカゴいっぱいにお菓子を買ったりもして
いた。私はいっさい干渉しない。 (していないつもりだけ? まぁでも、○○買ってもいい?なんて
言い方をしないとこみると出来ているのかも) が、小遣いが無くなって、
10円の飴 ひとつねだってきても、買ってはやらない。 (鬼? いや、あたりまえ!)
けれど、「へぇ~ぇ」と感心したことは、3日で使い切り、残りの27日間はスッカラピンで、
それこそ10円の飴も買えない状態なのに、娘はハッピーで満足していることだった。
本人いはく、『欲しかったもん買ったんやも~ん。 納得♪♪』 このハッピー精神は、今でも健在
娘は、61円のお菓子を買って100円渡せば、おつりは、39円だということを既に学んでいた。
1000円札でなら939円になることも。 お釣りを確かめることも学んでいた。
ふたつ買えば122円で、『1円玉整理しよっと』 と言って 店員に202円 渡す術も知っていた。
コンビニなら100円する菓子が、スーパーでは90円で売っている。 だからスーパーで買う。
そして差額の10円を持って、駄菓子屋に行き、ガムふたつゲットする主婦の知恵も得ていた。
ある日、そろばんに興味をもった娘は、一時期、レシート片手に番頭さん。
食料品とかを買った長~いレシートを集めて、98円なぁり、112円なぁり…
合計は6325円。レシートには答えが載っているから好都合。 はまってはったなぁ。
ゲームソフトや本などが欲しいときは、近所の店舗には電話で。 買いには行けない遠方は、
パソコンで各店の値段を調べ、交通費や配送料も加算して検討してはる。
市場調査はバッチリだ!! 一番安くで買える所で買ってはる。(中古・古本オンリー)
月末近く、突如、友達と映画を観に行くことに決まった。 財布の小銭、全部だして、電卓登場。
映画代に、パンフレットに、ポテトも欲しい。 駅に電話して、交通費も調べてはる。
う~ぅぅ150円ほど足りない。 さぁ! 娘よ どうする!! 前借制度は設けていない。
ポテトを諦めるか? はたまた来月に延期するか? 一休さんになって考えてはる。
20分後、 『映画館まで自転車で行くことにしたから道おしえてぇー』 (片道40分程の道のり)
娘、8歳。 あっぱれすぎ!!
モノポリのボードゲーム。
支払い 1億2千800万。 2億渡して、『7千200万 おつりちょ~だ~い』 と言っている。
なのに、5+6=9やったっけ? と言う。 なんなんだーーーー
今 私は思う。
ほんっとうに子ども自らが興味をもって勉強 (一般的に捉えられている学業)をしているのなら、
それは他の学び同様、すばらしいもの。 が、そうでない場合… 受験や将来のため? もしくは
国が定める規格品に合わすため? いーや、親の欲求を満たし、親の不安を打ち消すためか?
いずれにせよ、 命令や説教や脅し(ハードにしろソフトにしろ ←この意味合いは、【子どもから
教えられたこと】 で後述)を掛ければ、 確かに勉強はするようになるだろうが、
それはその勉強に対して興味が湧き出たのではなく、単に恐怖から身を守る自己防衛なだけ。
いかなるかたちであれ、勉強をするよう (興味を高める)動機付けをする行為は、
外側からすべきものではないし、出来るものではない。
他者の好奇心を支配することなんて出来ない。 動機付けの発起人はあくまでも本人でなくちゃ。
なぜなら、力のムチを振り落とされて生じるのは、劣等感。(成績が悪いと評価されている子)
もしくは優越感。(成績が良いと評価されている子) または安心感。
どれもこれにも恐怖が根づき、 嘘つき名人っ子になって 自分自身を見失う毒。
子どもが学業を嫌うのは、恐怖を与えられる (与えられた)から。
恣意的な権力や権威によって、支配され、評価され、服従を強いられるから。
学業だけじゃないけどね。
娘は、未だ九九(掛け算)を覚えようとしないが、今の彼女には必要ないのだろう(2005年現在9歳)
マスターしたい!! と思ったとき、 『教えて~』 と言ってくるだろう。
それは明日かもしれないし、永遠にこないかもしれない。 独力でマスターするかもしれないし。
電卓もあるしな。 まっ、彼女の生きるままに任せましょう。
ちなみに彼女、大文字・小文字のアルファベットの読み書きは、たった2時間でマスターした。
それが分からないと、出来ないゲームがあったから。
デモクラティックスクール情報