デモクラティック・フィールド のらねこ 手記 子どもから教えられたこと 「選択」

手記 - 子どもから教えられたこと

選択

学校,校舎 @ 不登校は生き方のひとつ我が子が 『学校に行きたくない!』 と言い出した時、
なぜ親は、動揺するのだろう…
我が子が学校に行けなく(行かなく)なった時、なぜ親は、
悩み・苦しむのだろう…


息子は小学5年生の秋、学校に行かなくなった。
それまでの私は、学校 (小・中学校)に行くのは当り前!と思い込んでいた。
学校とは?とか、教育とは?とか、何のため? 誰のため?
そういったことを考えてみることはなく、社会通念がつくった学校信仰にドッブリと浸っていた。

そんな私だったから、子どもが ある日 突然 学校に行けなくなったとき、
それは、天と地がひっくり返るほどの出来事となり、悩み・苦しみあがいた。

学校に行かないってどういうことよ? 学校に行かなくなったらどうなるのよ? 大人になれない?
将来は? 学校自体が社会なのに、そこでやっていけないって・・・???
ほんとにほんとに 頭の中は真っ白になり、ただただ かつて経験したことのない不安に襲われた。

息子は5年生になった当初から、担任となった先生が大っキライで、それが原因で
『(学校)行きたくないわ~。 あぁ~休みてぇ~』 と、常々言っていたのに、
それがSOSの信号だったということに私は気づかなかった。

それどころか、その後も日ごと募っていった先生への不信感・恐怖感による彼の悲痛を知ったときも
それでもまだ学校に行くのは当り前で(休むのは問題ないが、完全に行かないということに対して)
どんなことがあっても学校は絶対に行かねばならない所と思い込んでいた。(学校信仰)
息子がある日一晩にして胃に穴があき、心身ともに体調を崩して初めて、私は 「不登校」たるものを知った。

私は担任の先生と話し合いたかった。 話し合っていきたかった。
しかしながら、毎晩 家には来てくれたものの、初めから終わりまで ずっと泣いてばかりの先生に、
これじゃあラチあかん!と思い、息子が学校に戻れるよう何とかして!と、校長に会いに行った。
『担任をかえてもらえませんか?』 とも願いでた。

校長は、『一生徒のわがままで担任を代えていては、教育に歪みが生じ、他の先生・生徒全員に
悪影響を与えます。 そうなれば、○○君(息子)が皆から責められる立場になり、辛い想いを
します。それがわかっていて、担任を代えるなどということは、○○君のために出来かねます。
第一、△△先生が嫌という理由らしいですが、△△先生は いい先生ですよ。 大人は変われるもの
ではないのですから、順応性のある子どもの方が変われば何の問題も生じません。
社会にでれば嫌な人とも付き合っていかねばならず、従順の習慣は大切です。
学校は、集団生活によって社会に適応する訓練の場でもあるのですから、 甘えていないで頑張る
よう指導して下さい』 と言い、
『子どもの言う口実を信用していては、自主的な子どもには育ちませんよ。・・・・・。』 とも言った。

建て前に呆れ、校長に怒りを覚え、初めて 学校教育に疑問を抱いた。
もう、学校側になんとかしてもらおうとは 望まなくなった。
どうすれば行けるようになるのか、次なる解決策をあれこれと考えた。

そう、相変わらず私は 学校信仰者。
赤信号になるまで我が子を苦しめた親としての自分の愚かさを省みることも知らず…

息子が学校に行けなくなって あと数日で2週間が経とうとしていたある日、
『俺、どうなるん?』 と、ボツンと言った彼の言葉に、私はようやく気づかされた。

「何してるんやろ わたし… 息子は、学校を問い詰めて、原因を追及することを望んでるわけや
ないのに」と。不登校とは、原因を問いただし、いかにして治すか、というものではなく、
まずは、そもそも「不登校ってなんだ?」ということをわからないと 何も始まらないってことに。
また、親が苦しめば苦しむほど、悩めば悩むほど、子どもは その何十倍、何百倍と苦しみ、
逃げ場のない窮地に追い込まれてしまうことにも。
このことに気づかされてからは、あぁ~そっかぁ~ そっかぁ~と、ドンドンみえてきた。

学校へ行くことを当たり前と捉えるから、学校へ行かないことは普通ではなくなるわけだが、
じゃあ、その “普通” って何だ? 学校に行ってる子どもには「なんで行くの?」の問いかけは
ないのに、どうして不登校だと「なんで?」になるんだ?
子どもは 『行きたくない!』 と言っているのに、なんで親の私が悩んでいるんだ?
私の持つ価値観は、本当は誰の価値観? どこから来た価値観? ・・・。

あ~だ こ~だと、子どもにではなく、自分自身に目を凝らしてみると、不安ゆえの苦しみの根本は
私自身が、大多数の人が当たり前!と思い込んでいる常識や建て前などといった社会通念に沿うた
育てられ方をしてきていて、 物事を 善・悪で計る やり方・在り方に染まってもいたので、
“自由” の本当の意味を知らなかっただけだった。

≪自分に責任をもつ≫ が不完全だったから、おのずと社会の枠組みに基準を置き、その枠から
はみ出ることで受けるバッシング(自分への評価、偏見や差別からくる世間の目や声や重圧etc)を
怖がっているにすぎなかった自分がみえた。 自分の知らない未知なる世界は常に怖くて。

じゃあ、何で怖くなる? その怖さの根源はどこ?
「恐怖」が生えていた根をたどって、自問自答していった。
この行為がまた怖かったが…

我が子を支配したい!という気持ちが 親にはあるから、望まない・望めない、
また、善しとは思えない事柄を子どもが選択したとき、それは単なる価値観の相違だけなのに、
それらを認めるというのは、親としてのこれまでを否定されているようで、(親としては)それが怖い
だからなかなか認められない。 子どもを ではなく、自分自身を…

不登校に限らず、例えば子どもの進学にしろ、就職にしろ、結婚にしろ、我が子が何を選ぼうが、
その子が我が子であることに変わりはなく、そんなことで(親が望もうが望まなかろうが)
子どもの存在価値が上下するものでは決してないのにね。



不登校って何なのだろう? 例えて言うなら、“離婚” と同じじゃないかな?
離婚は善・悪で区別しきれるものではなく、離婚の原因は人それぞれ。 考え方も人それぞれ。
がまん度 (?)も、傷づき度 (?)も100人100通り。
されど、あえて今以上に不幸になりたくて離婚を望んだ人を、私はまだ知らない。

背負わなければならないリスクはあっても、それでもなおかつその上で、自分を苦しめる自分の
心におさらばして、自分が自分でありたい、自分を生きたい、とする生き方のひとつのように、
不登校もまた、生き方のひとつの選択ではなかろうか。

学校に行くことで、自分を壊されていくことに危険を感じ、ただひたすら自分を見つめ、
“生” を考え自分の意志や主体性をもって自分自身を生きようと決断した、 勇気あるすばらしき
子どもたちではなかろうか。 決して、怠けや、甘えや、わがままで出来ることではない。



不登校を問題とすることが問題だった。 不登校を何かしらの問題行動と捉えるから、
「解決」が発生するわけだけど、不登校は何ら解決すべき問題ではなかった。
我が子を理解し、信頼しなければならない問題だった。 尊重するか、しないか、どちらか!!

不登校なんてものは、自分の足にフィットしない靴を履いていたら靴擦れがおきるように、
その学校は、自分には合わない。 ただそれだけのことだった。

病気、という道具をつかって、「いのちを生きる」を教えてくれた彼は、
今度は、不登校、という小道具をつかって、「自分を生きる」を教えてくれようとしたのだろう。
なんかね、不登校をわかったら、長い間かくれんぼしていた「本当の自分(私)」がみつかったよ

『今の時代、いろんな選択肢がありますもの。 子どもが元気なら、それがなりよりですわ』
よその子どもになら簡単に言えるのにね。